眞光寺のあれこれ
眞光寺の設立と現在の本堂
明徳五(1394)年八月、東(あずま、関東の意)の住人(「東間(あづま)氏」の説もあり)、六之丞宗斎(むつのじょうしゅうさい)という人物が門信徒と協力し、後世、寺岡と名付けられる現在の地に「眞光寺」を建立。以来、時には砦が築かれるなど数々の戦の場(家庭が修羅場という意味ではありません)となるが、それらの戦火を乗り越え、法灯を守り現在に至ります。
ちなみに、現在の本堂は嘉永三(1850)年三月に建てられたものです。住吉村の大工棟梁、新左エ門の名と共に書付があります。ペリーが黒船に乗ってやって来る三年前になります。
昭和20年頃の眞光寺
昭和20年頃の眞光寺です。基本的には現在の姿と変わりませんが、今は無い太皷楼があったり、木が多かったり、やはり歴史を感じます。でも以前、昔長居にお住まいだった方が、「久しぶりに長居に帰ってきたら、どこも変わってしまって、、変わってないのはお寺さんだけやわ」と仰っていたのが印象的でしたが、この写真を見てすごく納得させられました。
古い景色を守り続けるって、それに関わる人達の想い出も守っていく事なのかもわかりませんね。
天誅組 天誅外支 矢半田氏のお墓
眞光寺 境内には 天誅組(幕末の尊王攘夷派集団)関連と思しき人物のお墓があります。
天誅外支(中の下に又)墓 矢半田氏 大正八 廿八日 天 外?支(中の下に又)建 とあり、それより後年に刻まれたのか少し読みやすく 大正十二年七月十四日入寂 とあります。
1863(文久3)年 天誅組が大和へ向かう際、淀川を下って大阪湾を経由し堺から上陸したそうです。この上陸の地は現在の旧堺港付近で、今は「天誅組義士上陸遺蹟碑」と書かれた記念碑が建てられています。
堺市立中央図書館の堺市史によりますと、現在の記念碑が建立される以前、1896(明治29)年1月に矢半田安朗という人物が天誅組上陸記念の碑を建立しようと申請し、着工したそうですが、完成を待たずに矢半田氏は亡くなり、工事も中止になったようです。
この矢半田氏が眞光寺に眠る矢半田氏と何か関係があるのでしょうか。
ふしぎ 発見。
眞光寺ではプリンター等のインクカートリッジの回収を行っています。
お参りの際や、近くに来られた時にお預けください。
捨てれば ゴミ
活かせば 資源